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芥川龍之介「お辞儀」

〇冒頭文“保吉は三十になったばかりである” 

 

人と人との触れ合いについて。いつも電車で見かける人。日常では話しかけることはまずない。何かのきっかけがない限り。例えば、状況が違うなら、あるいは、思いがけない場所であれば。全体の中の一人がある日を境にぐんと重要な一人として持ち上がってくる。感情の微妙な揺れ動きを、無駄のない文章で描かれており、まさに短編小説のお手本である。風景も感情も静かに胸に迫ってくる。ラストにも驚き。こういった洒落た終わり方もあるのだと印象深い。

 

〇“しかし往来を歩いていたり、原稿用紙に向っていたり、電車に乗っていたりする間にふと過去の一情景を思い浮かべることがある。それは従来の経験によると、大抵嗅覚の刺激から連想を生ずる結果らしい”

〇“保吉はふとお嬢さんの眉の美しかったことを思い出した。爾来七八年を経過した今日、その時の海の静けさだけは妙に鮮やかに覚えている”

〇“唯保吉の覚えているのは、いつか彼を襲い出した、薄明るい憂鬱ばかりである”